隣の住人
私が5階建ての古いアパートの最上階に引っ越してきたのは、梅雨明けの蒸し暑い日。
階段しかない物件でしたが、家賃が安かったので我慢することにしました。
引っ越して3日目の夜、寝苦しさに目が覚めました。時計を見ると午前2時。
少し外の空気を吸おうと、ベランダに出ました。
そのとき、ふと隣の部屋のベランダに目をやると、そこに若い女性が立っているのが見えました。白いワンピース姿で、長い黒髪が夜風に揺れています。
「こんな時間に……」と思いつつ、私は「こんばんは」と小さな声で挨拶をしました。
女性がゆっくりと振り向きます。月明かりに照らされた彼女の顔は、驚くほど美しかったのです。
そして彼女はにっこりと微笑み、ベランダの手すりを軽々と乗り越えてしまいました。
「あ!」私の声が夜空に響きます。
しかし、女性の姿はもうそこにはありません。5階から転落したはずなのに、下から悲鳴一つ聞こえてこないのです。
翌朝、私は管理人さんに昨夜の出来事を必死に説明しました。
しかし、管理人さんは首を傾げます。
「隣の502号室はね、半年前から空き部屋なんですよ」
午前2時
その日から、私の日常が少しずつ歪みはじめました。
午前2時になると毎晩、隣のベランダに彼女が現れるのです。
1週間が過ぎたころ、私は彼女に声をかける勇気を振り絞りました。「どうしてこんなことを?」
彼女は悲しげな表情で答えます。「私、幸せになりたかったの」
その夜、彼女は私に手を差し伸べてきました。「一緒に来ない?ここを降りれば、きっと幸せになれるわ」
私は、なぜかその手を魅力的に感じ、気がつけば自分の手を伸ばしている自分がいました。
その瞬間、背後で目覚まし時計が鳴り響きました。
はっと我に返った私が振り返ると、そこにはもう誰もいません。ただ、手すりに長い黒髪が一筋、夜風に揺られているのが見えました。
それ以来、隣のベランダに彼女が現れることはなくなりました。
しかし、今でも深夜2時になると、ベランダの外から「一緒に来ない?」とかすかな声が聞こえてくるような気がするのです。
そして最近、私は恐ろしいことに気づきました。
鏡に映る自分の姿が、日に日にあの女性に似てきているのです。長く伸びた黒髪、白いワンピース…。
ベランダに立つたびに、手すりを越えたい衝動に駆られるのです。
いつか私も、彼女のように微笑みながら飛び降りてしまうのでしょうか。
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